八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜

★賀茂氏は三輪氏と共に古代史解明の鍵を握ると言われて来た氏族です。八咫烏(やたがらす)と称された賀茂氏の系譜公開を基に、弥生、銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、韓半島との縁、壬申の乱、記紀成立など日本古代史の謎を紐解きます。もちろん賀茂氏縁の陰陽道、修験道、神社、徳川家などにも触れて行きます。☆ 大加茂真也
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2月11日、慈恩さんの新刊発売!
 
2月11日、慈恩さんの新刊(電子ブック)発売!
オススメです。
地球維新天声会議ブログ
にて、下記スケジュールで記事を掲載との事です。
2月1日 発売日告知 
2月2日 未定
2月3日 まえがきを公開
2月4日 目次を公開 慈恩さんのコメント付き
2月5日 登場人物の解説
2月6日〜9日 序章の一部を四日連続で公開
2月10日 慈恩さんのコメント掲載
2月11日発売
販売は株式会社Monde。
問い合わせ先は、
02:14 | 日本古代史 | comments(1) | trackbacks(0)
「遼太郎」なる者からの事実無根の誹謗中傷
 先般のご報告の通り、お蔭様でこのブログが本になりましたが、
その後の売れ行き、評価も概ね好調です。

ただ、一方で「遼太郎」なる者から、Amazonのレヴューで事実無根の誹謗中傷を繰り返され困っています。

このブログを含め証拠を示しての出版社からの抗議や、Amazonの指導にも関わらず、微修正しては、私の本の4ヶ月前(2012年10月)に発売された書籍の盗作との趣旨主張を変えません。

2006年1月からのこちらのブログの方がはるかに先ですし、そもそも、当該書籍と論旨も結論も異なります。

いろんな方がいるものだと悲しくなると共に、何より、ご協力頂いている多くの方々にもご心配をお掛けし、非常に悔しいです。

何卒、ご支援の程よろしくお願いします。



20:08 | 日本古代史 | comments(6) | trackbacks(0)
来週、出版予定です。
 お蔭様で、本になりました。

来週ヒカルランドから発売予定です。

ご支援のほど、よろしくお願いします。

http://www.hikaruland.co.jp/books/2013/02/06123129.html


17:42 | 日本古代史 | comments(10) | trackbacks(0)
ヒカルランドから出版
 
ヒカルランドより、出版になります。

http://www.hikaruland.co.jp/books/2013/02/06123129.html

よろしくお願いします。

大かも
22:29 | 日本古代史 | comments(1) | trackbacks(0)
9.[葛藤]壬申の乱
次に挙げるのは、壬申の乱における登場人物の中で、近江朝の主だった人物である。
☆印は、出雲族を示す。
まづ、壬申の乱において近江朝の将として活躍した者である。すなわち、書直薬(フミノアタイクスリ)、智尊(チソン)、☆穂積臣百足(ホズミノオミモモタリ)、犬養連五十君(イヌカイノムラジイキミ)、忍坂直大麿呂(オシサキノアタイオオマロ)、谷直塩手(タニオアタイシオテ)、佐伯連男(サエキノムラジオトコ)、壹岐史韓国(イキノフヒトカラクニ)、樟使主磐手(クスノオミイワテ)、廬井造鯨(イオイノミヤツコクジラ)、大野君果安(オオノノキミハタヤス)、中臣連金(ナカトミノムラジカネ)、田辺小隅(タナベノオスミ)、山部王(ヤマベノオウ)、境合部連薬(サカイベノムラジクスリ)、秦友足(ハタノトモタリ),社戸臣大口(コソベノオミオオクチ)、土師連千嶋(ハジノムラジチシマ)である。
次に、途中で吉野方に寝返った人物である。すなわち、高坂王(タカサカノオオキミ)、☆穂積臣五百枝(ホズミノオミイオエ)、☆物部首日向(モノベノオビトヒムカ)、稚狭王(ワカサノオオキミ)、☆羽田公人国(ハタノキミヤクニ)、☆羽田公大人(ハタノキミウシ)である。さらに、吉野方に心を寄せていた人物である。すなわち、☆蘇我臣安麻呂(ソガノオミハタヤス)、☆蘇我臣果安(ソガノオミハタヤス)、☆巨勢臣比等(コセノオミヒト)である。そして、乱の後、許されるか、減刑された人物である。すなわち、☆物部連麻呂(モノノベムラジマロ)、☆蘇我臣赤兄(ソガノオミアカエ)である。このように、近江朝の豪族の中で、名門といわれる、蘇我・物部氏には全く戦う意欲がなく、また出雲系豪族の殆どが吉野方に心を寄せていた気配が見られる。
次に挙げるのは、最初から最後まで吉野方についていた人物である。やはり☆印は、出雲族を示す。
大伴連吹負(オオトモムラジフケイ)、大伴連馬来田(オオトモノムラジマグタ)、書首根麻呂(フミノオビトネマロ)、大伴連御行(オオトモノムラジミユキ)、栗隈王(クリクマノオオキミ)、美濃王(ミノノオオキミ)、小子部連鉏鈎(チイサコベノムラジサイチ)、三野王(ミノノオオキミ)、秦造綱手(ハタノミヤツコツナテ)、忌部首子人(インベノオビトコビト)、
村国連依(ムラクニノムラジオヨリ)、土師連真敷(ハジノムラジマシキ)、物部連雄君(モノベノムラジオキミ)、稚桜部五百瀬(ワカサクラベノイオセ)、☆三輪君子首(ミワノキミコヒト)、☆三輪君高知麻呂(ミワノキミタケチマロ)、☆田中臣足麻呂(タナカボオミタリマロ)、☆当麻公広嶋(タギマノキミヒロシマ)、☆鴨君蝦夷(カモノキミエミシ)、☆紀臣阿閇麿(キノオミアエマロ)、☆坂本臣財(サカモトノオミタカラ)、☆坂田公雷(サカタノキミイカヅチ)、☆紀臣堅麻呂(キノオミカタマロ)、☆星川臣麻呂(ホシカワノオミマロ)、☆膳臣麿漏(カシワデノオミマロ)、☆当麻公広麻呂(タギマノキミヒロマロ)、☆布勢朝臣御主人(フセノアソミミヌシ)、☆尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)、☆尾張連馬身(オワリノムラジマミ)である。
 以上のように、壬申の乱で活躍した人物に注目すると、吉野方には、圧倒的に出雲族がついていたことがわかる。逆に近江方の名門豪族で最後まで戦い抜いたのは、中臣連金(ナカトミノムラジカネ)と穂積臣百足(ホズミノオミモモタリ)だけであった。つまり、近江朝にいた名門豪族の殆どが、開戦後吉野方に寝返ったということある。
 こうして、壬申の乱は、吉野方(大海人皇子)の圧倒的勝利に終わった。近江朝の大友皇子は、天智天皇から譲り受けた王朝を実にあっけなく失ったのである。
  しかし、それは逆に、父・天智天皇から譲り受けたからこそ滅び行く運命であったとも言えるかもしれない。 
09:01 | 日本古代史 | comments(6) | trackbacks(2)
9.[葛藤]壬申の乱
それによると、霊亀2年(716年)4月、壬申の乱の功臣の子息に田を賜ったとい記事がある。そして、その中に尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)の子、尾張稲置(イナキ)が含まれているのである。
さらに、天平宝字元年(757年)12月、尾張稲置(イナキ)らに賜った功田を3世代に伝えさせたと記載する。
問題は、その理由として尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)の壬申の乱における功績を具体的に述べている点だ。
それによると、壬申の乱勃発直後、大海人皇子(後の天武天皇)が東国に逃れたとき、大隅が大海人皇子を出迎えたという。さらに兵を整え、行宮(アングウ・皇子の在所)を築き、軍資金を提供したというのである。
この正史・『続日本紀』の証言が真実であれば、正史・『日本書紀』は壬申の乱の記述の中で重大なミスを犯していたことになる。
なぜなら、尾張氏は単なる地方豪族ではない。オオモノヌシにつながる物部氏の祖、ウマシマチと異母兄弟にあたる、天香山(アマノガヤマノミコト)といわれる人物である。つまり、尾張氏もスサノオにつながる出雲王朝の一氏族だったのである。
出雲と尾張に接点があったという事だ。出雲訛りと尾張訛りが似ている点も不思議ではないという事である。
その尾張氏の人間が大海人皇子(天武天皇)を出迎えたという事実は、この乱において他に与える影響が計り知れないものであったことは容易に想像が付く。
大海人皇子(天武天皇)が東国に入っただけで、近江朝の人々があわてふためき、離散していたことが伝えられる。
そのような、重大事について『日本書紀』は殆ど触れていない。
これは、ミスではなく、意図的に消したことに他ならない。
 このように、『日本書紀』は、壬申の乱の記述においても、出雲系の豪族の活躍を歴史の「表舞台」から消したという事実が伺える。
 壬申の乱の最後の戦闘となったのが大津京をめぐる攻防戦である。
 大友皇子の率いる近江朝の軍勢は、勢田橋の両側に陣取り、旗は野を隠し、ほこりは天に届くほど舞い上がり、その陣の最後尾は全く見ることが出来なかったという。さらに彼等の放った矢は、まるで雨のように敵陣に降り注いだという。
 だが、この最後の決戦は、いくら『日本書紀』が力を込めて飾ろうと、戦闘らしい戦闘もないままに終局を迎える。事実、この戦いで勇敢に戦った近江朝の人物は、なんと無名の将・智尊(チソン)ただ一人だったからである。
 大津京の戦いは瀬田橋の争奪戦であった。吉野方(大海人皇子=天武天皇)の将・大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)が単身この橋を渡りすぎると、近江朝の兵は浮き足立ち、智尊が逃げる味方を斬っても、ケもはや誰もそこに留まろうとはしなかった。近江朝は、大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)ただ一人の為に敗れ去ったというのである。
 最後尾が見えないほどの軍容を誇ったとされる近江軍がこのようにいとも簡単に敗れ去ったのは何故か。そして、近江朝についたとされる大豪族たちは、いったい何をしていたのだろうか。
 
22:43 | 日本古代史 | comments(1) | trackbacks(0)
9.[葛藤] 壬申の乱
さらに、彼等以外にも賀茂氏をはじめ、出雲族が揃って・野(天武)方に就いている。
 そもそも、大海人皇子挙兵の決断は、高市県主許梅に神懸り神託によるという。
 その高市県主許梅に降りた神の名は、事代主(コトシロヌシ)。事代主も賀茂・三輪氏であった。<系図>
 つまり、大海人皇子(天武天皇)挙兵の決断に、事代主、つまり賀茂・三輪族が関わっているというのである。
 次に、『日本書紀』では不当な扱いをされながら、『続日本紀』などに登場し、天武朝の重臣となった、主だった人物を紹介する。
正広弐(正二位相当)右大臣・大伴連御行(オオトモムラジミユキ)、従二位右大臣・布勢朝臣御主人(フセノアソミミユシ)、大紫位(正三位相当)・星川臣麿呂(ホシカワノオミマロ)、同・膳臣摩漏(カシワデノオミマロ)、従三位・三輪君高市麻呂(ミワノキミタケイチマロ)、尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)、尾張連馬身(オワリノムラジウマミ)。
これら一連の壬申の乱の功臣であり天武朝の重臣である人物の中で、出雲系出身でないのは、大伴連御行(オオトモムラジミユキ)ただ一人である。この大伴連御行にしても、その親である大伴長徳(オオトモナガヒコ)が出雲系の孝徳王朝において右大臣であったことから、出雲系との関係が強かったことが伺える。
 このような、『日本書紀』による、出雲系豪族の活躍の抹殺の確証となる人物がいる。
 前出の尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)である。
 『日本書紀』持統10年(696年)5月の条には、水田四十町を尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)に賜ったと記されている。しかし、それが、壬申の乱の功に対して賜ったことには全く触れていないのである。
 つまり、尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)と壬申の乱との関わりを一切否定しているのである。ところが、『日本書紀』の次に書かれた正史『続日本紀』には、壬申の乱の通説を全面的に覆すような衝撃的証言が記載されている。
12:02 | 日本古代史 | comments(2) | trackbacks(0)
9.[葛藤]壬申の乱
この賀茂蝦夷は、大友吹負に呼応して大和支配に協力、後に河内の近江軍に備え石手(イワテ)の道を守るなどして、活躍している。
 挙兵を決断した大海人皇子が、最初に取った行動は、美濃国(岐阜県中部・南部)に使者を送ったことである。美濃国には皇子の直領地である湯沐邑(ユノムラ)があった。湯沐邑は皇子の軍事的かつ経済的な基礎であり、そこの役人である湯沐令(ユノウナガシ)・多臣品治(オオノオミホムジ)に、重要な指令を出している。
 指令内容は、まず、その地で兵を集め、国司(クニノツカサ)と連携して軍を起こし、速やかに不破の道を防ぐというものであった。不破の道は美濃と近江を結ぶ重要なルートである。「生命線」ともいうべき重要なルートを真っ先に支配下に置くことは、戦のセオリーであり、それを遂行したことは、戦の勝敗を左右する重要任務であった。
 さらに、この近江と東国を遮断するという意味は、通説は見落としている重大な意味があったと推定される。既に触れたように、近江・東国は、百済遺民団の移住地であったのである。『日本書記』にも明記される近江方・韓軍。つまり百済軍の連絡を絶つという最大の目的があったと推定される。
 最初にこの重要な使命を受けた、多臣品治。彼もまた賀茂氏の血脈であった。
 神武天皇と姫蹈鞴五十鈴姫の間の子、神八井命(カムヤイノミコト)の子孫が多臣なのだ。
 姫蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)は賀茂女であったことは既に述べた。また彼女が、卑弥呼の子(または妹)、トヨであったであろうと言う点も既に触れた通りである。
 多臣品治は、大海人皇子(天武)の期待に応え、不破の道を固め、各地の国司と連携して兵力を動員した。さらにその後も任務を遂行し、吉野方(大海人皇子)の勝利に大きく貢献したのである。
 
12:00 | 日本古代史 | comments(0) | trackbacks(3)
9:[葛藤]・壬申の乱
⊃竸修陵陲亮他
 通説では、この乱は、大海人皇子にとって「窮鼠猫を噛む」如く勝算のないものだったとされる。
 大海人皇子は、吉野へ去るにあたり、敵意がないことの証として武器を全て朝廷へ納めている。また、皇子に随行したのは、妃と二人の皇子、二十数人の舎人(トネリ・雑務を扱う下級官人)、十数人の女官である。つまり、どう考えても戦える陣容ではなっかたのである。
 確かに、大海皇子には人望があり、各地の豪族や朝廷の中にも支持者は多かった。とはいえ、彼等が皇子の挙兵に応じ、ただちに駆けつけてくれるという保証はなかったはずである。
 そのような中、大海人皇子の決断は、いかに追い詰められていたとはいえ、実に危険な賭けだったとも思える。このように『日本書記』の記載が真実であれば、確かに大海人皇子の勝利は「奇跡」というしかない。
 果たして、真実はどうだったのか。
 実は、『日本書紀』の記述に全く記載がない人物が、後に編纂された『続日本紀』等には多くの記載があるという事が判明している。しかも、その多くが、大海人皇子が壬申の乱に勝利し、天武天皇となった天武朝時代に重臣として史実に登場しているのだ。
大海人皇子は決して勝算のない危険な賭けに出たわけではなかったのだ。
 壬申の乱で大海人皇子を支えた豪族は多かった。中でも軍事氏族として名高い大伴氏の中心人物であった、大伴馬来田(マクタ)、大伴吹負(フケイ)の兄弟は、皇子の将来に望みを託し、皇子が吉野へ去ったあと、自らも病と称して近江朝廷を去り、大和へ帰っていた。事実、皇子が挙兵すると、大伴吹負(フケイ)はすぐさま兵を集め大和を支配下においた。吉野方(大海人皇子)の将軍に任命されたのは大伴吹負である。
 しかし、この大伴氏以上に、皇子が頼りにしたと思われる氏族がいた。『日本書記』壬申の乱の記述にも、大伴吹負(フケイ)と並んで、鴨君蝦夷(カモノイミシ)が登場する。
賀茂氏系図にも「壬申功臣」と記載がある賀茂氏の者である。
壬申の乱の功により、天武3年に「賀茂朝臣」の姓を賜ったとの記載ある。
 つまり、賀茂族は天武方だった事。賀茂朝臣の姓を賜る程の功があった事が賀茂氏の系図からも読み取れるのである。
 賀茂蝦夷


11:55 | 日本古代史 | comments(2) | trackbacks(3)
9:[葛藤]・壬申の乱
/竸修陵靄嵌

天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子(オオトモのミコ、オウジ)と、天智天皇の弟・大海人皇子(オオアマのミコ、オウジ)との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。
通説の典拠となっている、正史『日本書記』よると、この有名な古代史の一大事件は、朝廷を相手に小さな手勢力の不満分子を中心とする反乱軍によって強行された。そして、薄氷を踏むような奇跡的な反乱軍の勝利であった。その結果、古来からの大豪族は衰退し、新参の弱小豪族が新たに台頭することになったと言う。
壬申の乱については、『古事記』にはなく、『日本書紀』にのみ記載がある事件である。
これは、『古事記』と『日本書紀』の、取り扱い年代範囲の違いに起因する。
 『日本書紀』に記載される、正史とされる『壬申の乱』の大筋は次の通りである。
 天智天皇は、子の大友皇子に皇位を継承させたかったが、その大きな障害が弟の大海人皇子であった。有能で人望があった大海人皇子は次の天皇に最もふさわしい人物であった。
しかし、大海人皇子(天武)は、天智天皇の死が近づくにつれて、天智天皇の敵意が増大している事に感付いていた。そこで、大海人皇子は、髪を落とし出家して吉野へと去っていった。それにより、大海人皇子に迫る危機は回避されたかに思えた。
671年12月に近江宮で天智天皇(中大兄皇子)が崩御。しかし、天智天皇の死後も、大友皇子を中心とした近江朝廷は、吉野への警戒を緩めようとしなかった。それどころか、着々と吉野追討の準備を進めていた。
このままでは滅ぼされる。ならば、先に攻めよう。このような判断で壬申の乱の戦火は切られた。
翌672年6月、・野にあった天智の弟、大海人皇子(オオアマノオウジ)は、まず自らの湯沐(トウモク)(養育料などを出す皇子の私領)のある美濃国を根拠地にし、加えて近江朝の軍事基盤基盤と見られていた東国と近江宮との連絡を遮断する為、舎人を美濃国に派遣。兵力の集結と不破の道の閉鎖を命じた。なお、通説では見逃されている事であるが、この東国、近江とも百済遺民の移民地であることが確認されている。さらに大海人皇子が信頼する一部の人物に挙兵を知らせ決起を促した。そして・野を脱出、支持者が多い、伊賀国、伊勢国の山道を通って密かに美濃国へ入った。時とともに大海人皇子に味方する者が集結。美濃国・尾張国などで2万5千。大和国で大友吹負らが数千。・野方(天武・大和)は3万の兵を集め、それぞれ戦闘体制に入っていった。大海人皇子は野上(ノガミ)に本営を置き、南には古京のある飛鳥周辺を抑えるとともに、北上して近江の背後を突き、また西は鈴鹿・不破の両山道を確保するとともに近江に側面攻撃を加える包囲網を整えていった。
これに対し、天智の子・大友皇子の率いる近江方の動きは鈍かった。大海人が大和留守司に命令を出した時点で、挙兵計画は察知されたはずで、留守司は直ちに近江朝に報せたと考えられる。だが、大海人皇子に追手もかけず、東国・大和・吉備・筑紫に挙兵を促す使者を立て、返答を待つなどいたずらに時日を費やしていた。大和での敗退に続き、高安城も陥落、さらに大海人皇子の本営に向け出兵した数万の近江軍は内紛で総崩れとなっていった。それでも、近江方の壱伎韓国(イキのカラクニ)、大野果安(ハタヤス)らが、衛我河(エガカワ)、乃楽山(ナラヤマ)の会戦で・野方・大吹吹負軍を敗走させ、一時、大和では近江軍が優勢になった。近江軍はさらに攻勢に出て、一方で田辺小隈が鹿深山を越えて倉歴(クラフ)を襲って大和への通路を遮断し、他方で境部薬(サカイベのクスリ)が・野方の野上の本営を突く計画を立てた。
しかし、これに応じて・野方も決戦を挑み、紀阿閉麻呂(キのアヘマロ)の率いる数万の兵が伊勢・大和方面に進軍。敗走してきた大伴吹負軍と合流して大和に入った。そして箸墓(ハシハカ)(卑弥呼陵墓)・村屋の会戦で近江方の廬井鯨(イオウイのクジラ)を降して、大和を完全に制圧。・野方・大伴吹負は西の難波、他は北の山前(山崎)に軍を集結させた。また倉歴(クラフ)は陥されたものの、近江方の側面攻撃を予見し置かれていた莿萩野(タラノ)陣営では多品治(オオのホムチ)が逆襲して近江軍を退けた。
主力軍同士の会戦、近江方・境部薬との戦いは息長横河(オキナガのヨコカワ)であったが、・野方の主力数万を率いる村国男依(ムラクニのオヨリ)軍が大勝した。・野方・村国軍はそのまま琵琶湖東岸を南下し、鳥籠山(トコのヤマ)でも、近江方・秦友足(ハタのトモタリ)軍を破り、安河(ヤスノカワ)、栗太(クリモト)に進軍してきた近江軍を次々と破っていった。そして瀬田川の橋を挟んで最後の決戦となった。ここでも、・野方・大分稚臣(オオキタのワカミ)の果敢な突入などもあって、近江軍を崩し、敗走させた。近江方・大友皇子は山背国(山城)まで落ち延びたが、遂にこの地で自害した。
これが、日本古代史最大の内戦と称される、壬申の乱の1ヶ月に及ぶ戦況である。
 
22:55 | 日本古代史 | comments(0) | trackbacks(48)

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