八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜

★賀茂氏は三輪氏と共に古代史解明の鍵を握ると言われて来た氏族です。八咫烏(やたがらす)と称された賀茂氏の系譜公開を基に、弥生、銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、韓半島との縁、壬申の乱、記紀成立など日本古代史の謎を紐解きます。もちろん賀茂氏縁の陰陽道、修験道、神社、徳川家などにも触れて行きます。☆ 大加茂真也
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第8章:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(2)
▲ーデター・大化の改新(乙巳の変)!
『日本書紀』によると、645年の「大化の改新(乙巳の変)」の蘇我入鹿殺害場面で蘇我氏の専横を糾弾している。「入鹿は王位を傾けようとしている。なぜ尊い血脈を、入鹿に替えることができようか。」というのである。
この直前、蘇我蝦夷・入鹿親子は、王家にしか許されていない八佾舞(ヤツラノマイ):六十四人で行う方形群舞)などを行い、蝦夷は天皇を無視して勝手に冠位を入鹿に授けたという。舞を行なった場所は、葛城の高倉(奈良県御所市鴨神、金剛山中腹)。つまり葛城賀茂族の本拠地である。さらに、彼は天皇の墓にしか使わないという陵(ミササギ)という名称を自らの墓に用いた。今来(イマキ・御所市東部)には百八十あまりの私有民を使役して、自分と息子の入鹿(イルカ)の為、大小二つの円分をつないだ瓢箪型の古墳で、双墓(ナラビノハカ)と呼ばれる巨大墳墓を建造させ、自らの墓を大陵(オホミサキ)、息子・入鹿(イルカ)の墓を小陵(コミサキ)と呼び、自らが大王(オホキミ)であるかのように振舞っていた。そして、自分の子をすべて王子(ミコ)と呼ばせたという。
故に、『日本書紀』の言い分はもっともな事である。
しかし、不思議なのは、この当の民衆の取った態度である。
蘇我氏に対しての不満が全く見られ無いのである。それどころか、大化の改新による、入鹿暗殺後しばらくして実権を握った中大兄皇子(のちの天智天皇)らの行動に対し、人々は口々に罵り、サボタージュや宮への焼き討ちなど、あからさまに反感を示しているのである。
一般に伝えられている、『日本書紀』による歴史と異なってくる。蘇我氏の悪政に苦しめられていた民衆を救うため、正義の元、立ち上がったのが、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)だったのではなかったのか。
何故、『記紀』が「蘇我氏の横暴」と非難しているにも関わらず、民衆に不満が見られないのか。そして逆にその「蘇我氏を成敗した」中大兄皇子らに対し、民衆は反感を示したのか。
どうも、『日本書紀』が主張する「正史」と当時の民衆の反応が「逆」なのである。
一体この、民衆の中大兄皇子に対する態度をどのように解釈すればよいのか。
さらに、蘇我入鹿暗殺直後の記事として、当の『日本書紀』は、次のように記載する。
韓人(カラヒト)、鞍作臣を殺しつ。(韓の政に因りて誅せらるるを謂ふ。)吾が心痛し
蘇我入鹿暗殺後、古人兄皇子(フリヒトノオオエノミコ)は自宅に駆け込み、このように叫んでいるのである。つまり「韓人」が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。胸が張り裂けそうだ、と。
と叫んでいるのだ。
蘇我入鹿暗殺の実行犯は、中大兄皇子、と中臣(藤原)鎌足である。そして、実際に手をかけたのは、中大兄皇子だったはずである。
そう記載する『日本書記』は、同時にその実行犯が「漢人(カラヒト)」だったと明かしているのである。一体これをどう説明するのか。
さらに、その注釈には、韓半島のをめぐる外交問題が原因で暗殺されたと明記する。
悲運の皇子・古人大兄皇子(フルヒトモオオエノミコ)。彼はこの時、最も皇位に近い皇子であった。しかし、中大兄皇子らによる蘇我入鹿暗殺後、吉野に逃れていたところ、異母弟の中大兄皇子らによって暗殺される。
これまで、信じられてきた中大兄皇子(天智天皇)や中臣(藤原)鎌足=「正義」、蘇我入鹿=「悪」という『日本書紀』本文の記載による通説を見直す必要がある。
『日本書紀』には、大化の改新の後、入鹿暗殺の現場に居合わせた皇極天皇(重祚して斉明天皇)の周辺に、祟る鬼が出たと記している。
斉明元年(655年)5月の条によると、
空中の龍に乗り、青い笠を着た者が葛城山から西に向かって飛び去ったという。
また、斉明7年(661年)5月には
直後の7月には、斉明天皇も亡くなり、その葬儀の様子を、大笠を着た鬼が覗き見ていたという。
『扶桑略記(フソウリャッキ)』は、『日本書紀』とほぼ同様の事件を追い、この鬼が、豊浦大臣(トユラノオオオミ)であると明記している。そして、斉明天皇の周囲で多くの人々が死んでいくのを見て当時の人々は、豊浦大臣(トユラノオオオミ)の霊魂の仕業だと考えたと言うのである。 
さらに、『日本書紀』に記されている不気味な鬼の正体を、『扶桑略記』は蘇我宗家の祟る姿であったと明かしているのである。この豊浦大臣(トユラノオオオミ)こそ、蘇我蝦夷とも蘇我入鹿とも伝えられているのである。<山口県・豊浦には弥生遺跡が存在する。>
祟りの被害を受けたのは、斉明天皇だけではない。やはり蘇我入鹿暗殺の現場にいた中臣(藤原)鎌足その人も祟りで亡くなったと考えられたという。
中臣鎌足の死は天智天皇8年(669年)10月。その一ヶ月ほど前、『日本書紀』は中臣鎌足の家に落雷があったと記録している。落雷など特に珍しい事でもないのに、『日本書紀』がわざわざ「正史」に記録したのは何故か。
後世、菅原道真が雷となって恨みを晴らしたように、古来、雷は祟りの証だったからである。したがって、中臣鎌足(藤原鎌足)の死の直前の落雷記事には、鎌足だけでなく、朝廷自身<天智天皇・中臣(藤原)氏>の脅えが隠されているのである。
斉明天皇に祟った鬼が蘇我一族の鬼であったことはまだ記憶に新しかったであろう。そうすると、鎌足邸への落雷と直後の死は、蘇我の祟りと直覚したであろうことは容易に想像が付く。
明らかに蘇我蝦夷や入鹿は祟る鬼とされていたのだ。
ここで注目しなければならないのは、蘇我氏の祟りを恐れたということは、誰もが蘇我氏に対し、後ろめたい意識があったからということである。
菅原道真の状況と同様に、祟りとは祟られる側の罪の意識の裏返しなのである。
加えて、「祟り(タタリ)」の語源は、「蹈鞴(たたら)」にあるとも言われる。つまり、弥生の製鉄(蹈鞴)集団の祟りである。古代の王は、シャーマンであり、鍛冶屋であり、土器製作者であったという事には既に触れた。姫蹈鞴五十鈴姫も、その手段であろうという点にも触れた。そして、後の記録にも、大きな災いが生じた時、決まってこの系譜の神々の祭祀に問題があったと考えられていたのである。(スサノオ・大物主・別雷神など)
つまり『日本書紀』の証言とは裏腹に、歴史の正義は蘇我氏にあったと推定される。
このことは日本列島に新たに生じた、百済王族を中心とする独裁志向の勢力と、古来からの合議制維持を掲げる政党大和朝廷、つまり蘇我氏を中心とした葛城系(出雲系豪族)の勢力の対立の歴史を証明しているのである。
「漢人(カラヒト)にやられた」という正統・古人大皇子の叫びががそれを裏付ける。
加えて、645年のクーデター・大化の改新の折、『天皇記』と『国記』が焼失しているのである。これらは、大化の改心の折、蘇我氏によって火が架けられたと通説は説く。しかし、これらの史書は620年の蘇我氏の政権下に編纂されたものである。
蘇我氏政権下に編纂されたこれらの史書は、少なくとも蘇我氏にとって不利な内容であるはずがない。よって、自ら焼却してまで、残したくない史書であるはずがないのである。 
クーデターの首謀者・藤原氏と中大兄皇子にとって都合が悪いモノであったと考えて始めて説明がつく事である。
中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子にとって、『天皇記』と『国記』に記載された日本古代史を消さなければならなかった。
つまり、このクーデターに大儀や正当性がなかったということである。
そう捉えると、この事件前後の民衆の態度についても容易に理解できるのである。
加えて、これまで、皇族や豪族が私有していた領土・人民を国家が直接管理する方針を打ち出す。これを公地公民という。
古来より、ヤマトは、国家は皇国であり、国民は皇民であった。これに対し、民衆が不満を持ち反発したという記録は無い。皇国と皇民の関係は、支配者と被支配者という関係ではなく、御祖と御子の関係であったからと推定される。これが現在に続く、大王の血脈を祀る神道の氏神と氏子の関係にあたる。
大化改新によって、国家という名目の藤原政権が誕生したのである。
つまり、古来からの「皇地皇民(コウチコウミン)」、「神地神民(コウチコウミン)」が、「公地公民(コウチコウミン)という名の、「藤地藤民(トウチトウミン)」へと移行したということである。
その後、この国家という名の藤原政権・中大兄皇子(天智天皇)に対する、民衆の反発の記録が頻繁に登場するようになったのが、それらの真実を証明する何よりの証拠である。
『日本書紀』中、天智天皇記には、この大化改新以降、極端に、不審火の記載が頻繁に現れる。
大化3年(647年)12月。
是の日に、皇太子の宮に災けり。時の人、大きに怪しむ
斉明元年( 年)是冬。
飛鳥板蓋宮に災いけり
 斉明2年( 年)是歳。
岡本宮に災いけり
天智6年(667年)3月。
日日夜夜、失火の処多し
天智8年(679年)12月
大蔵に災いけり
他の天皇記には殆ど見当たらない、失火記事が、天智天皇に限って多発しているのである。しかも、時の人、大きに怪しむと記載されるように、失火ではなく放火であったであろうということだ。

通説は、中大兄皇子と藤原氏の言い分を真に受け、蘇我氏の横暴を中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が糺したという。
しかし、少なくとも蘇我氏に対しては無かった民衆の反発である。
これは後に触れる、さらなる民衆の反応とあわせ、いかに中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足民衆の支持率が低かったか、いかに民衆の反発したかを伝えるものである。
同様な事例があった。葛城系との親密な行動をとった雄略天皇に対して民衆は「徳しく有します天皇なり」と賞賛した。だが、葛城系と対立し、さらに親百済反新羅政策を取った雄略天皇に対して民衆は「はなはだ悪しき天皇」と罵った。
『記紀』雄略記にもあった「民衆の言動」の暗号である。
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