八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜

★賀茂氏は三輪氏と共に古代史解明の鍵を握ると言われて来た氏族です。八咫烏(やたがらす)と称された賀茂氏の系譜公開を基に、弥生、銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、韓半島との縁、壬申の乱、記紀成立など日本古代史の謎を紐解きます。もちろん賀茂氏縁の陰陽道、修験道、神社、徳川家などにも触れて行きます。☆ 大加茂真也
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8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(3)
A媛羞蓮孝徳王朝要人暗殺
孝徳朝の最高位、左大臣に抜擢されたのが、阿倍内麻呂臣(アベノウチマロノオミ)であった。この人物は、蘇我馬子の側近、阿倍麻呂と同一人物とする説がある。仮にそうでなくても、蘇我氏と阿倍氏とは非常に密接な関係にあったということは事実である。
そして、この王朝は、645年の大化の改新による、蘇我入鹿亡き後、蘇我的な王朝を必死に守ろうとした政権であったのである。
この時期、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原氏)らにより、孝徳朝の要人たちが次々と不可解な最後を遂げていく。
孝徳天皇の御子・有馬皇子も謀反の疑いをかけられる。そして、中大兄皇子はこれを独断で裁断する。健皇子が不可解な最後を遂げるのも同じ頃である。
かつてない、皇位継承権者の暗殺が巻き起こったのである。
大化の改新のクーデターが蘇我入鹿暗殺という単発的な事件だったのではなく、永続的なテロであったと推定されるのである。
そして、その首謀者が、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足であったのだ。
孝徳晩年の白雉4年(653年)、高向玄理とともに、孝徳朝を支えていた隋留学生・旻法師(ミンホウシ)が病に伏すと、孝徳は「もし旻法師が死ねば私も明日死のう」と取り乱したという。
実は大化の改新は理想国家の建設を夢見た偉大な天皇、蘇我派皇族・孝徳天皇を引きずり落とすことで完成したのである。「話し合えば必ずわかるのだ」と孝徳天皇は語ったとされる。しかし、その裏には、二つの勢力の抗争と蘇我派勢力(葛城・出雲系豪族)の敗北という思いがにじみ出ているのである。
同じ年、中大兄皇子(天智天皇)らは、孝徳天皇に最後通達を突きつける。難波宮を引き払い、都を飛鳥に戻せというのである。これを拒否した孝徳天皇に対する仕打ちは強烈であった。
 孝徳天皇の皇后、間人(ハシヒト)を含めた多くの豪族・役人を飛鳥に移し、孝徳天皇を難波に置き去りにしたのだ。孝徳を捨てた中大兄皇子はこの時点からほぼ実権を握った。そして実母、皇極天皇を重祚させ、斉明天皇が誕生する。祟る鬼の出現が、孝徳朝滅亡の直後からであったことは決して意味のないことではなかったのだ。
 即位後、斉明天皇は飛鳥周辺で土木工事を頻繁に行なっている。
『日本書紀』は、この工事に対する人々の反応を「狂心(タブレゴコロ)の渠(ミゾ)」という言葉を用いて記録する。民衆は、これらの土木工事を「尋常な行為ではないと罵った」というのである。また、「石の山を造っても、自然と崩れ去るに違いない」と言い放ったという。
 先に触れた、岡本宮の火災はこの非難のさなかに発生しているのである。
そして、これらの非難の対象は、斉明天皇に対してではなく、背後で実権を握っていた、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足に向けられていたものであった。
先に触れた、大化の改新という名の政治テロにより、不正に政権を握った二人に対する、当然の結果としての民衆の低支持率と、反発である。
繰り返すが、あれほど当の二人が非難した、蘇我氏の政権下では一切見られなかった民衆の反応である。
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