八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜

★賀茂氏は三輪氏と共に古代史解明の鍵を握ると言われて来た氏族です。八咫烏(やたがらす)と称された賀茂氏の系譜公開を基に、弥生、銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、韓半島との縁、壬申の乱、記紀成立など日本古代史の謎を紐解きます。もちろん賀茂氏縁の陰陽道、修験道、神社、徳川家などにも触れて行きます。☆ 大加茂真也
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8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4)
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 7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
藤原氏は『日本書紀』神話の、天照大神が盤戸隠から出た時に、注連縄を引き渡して、磐戸を「封印した」、中臣・忌部神を祖とする。その子孫と言うことで、藤原氏の出自と正当性は、『日本書紀』神話・磐戸開きに求められる。
しかし、関裕二氏によると、疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。
さらに、藤原氏の祖・中臣氏は、神事に仕えた氏族というのが定説である。しかし、歴史上、確認できる藤原氏の行動は、神道よりも、仏教の布教に力を入れている。実際、藤原氏による、蘇我氏の滅亡を機に、古墳は姿を消す。そして、神道は影を潜め、仏教が華を咲かせるのでる。『記紀』によると、蘇我氏は仏教派だったのではないのか。
実際に、天皇家が仏教を取り入れるようになったのはこの時期からである。事実、天智系天皇は天皇家の菩提寺に祀られるが、天武系の天皇は祀られていない。この件については後に詳しく触れる。
神道は天皇家の祖先を祀る宗教だったはずである。藤原氏登場以降、神道ではなく、仏教で、天皇の先祖を祀るように変更したという事実である。つまり、藤原氏以降・天皇は事実上、神ではなく仏として祀られていたということである。
 これらの確認出来る事実だけを見ても、藤原氏の言動は不自然なモノである。
井上辰雄氏らも著書『日本古代史の謎』の中で、中臣(藤原)鎌足の実像は意外に掴めない、と次のように指摘する
その理由は、藤原鎌足像の主な典拠である『日本書紀』と『家伝』(鎌足伝)にある。そして前者は正史であるから鎌足個人のことが必要に応じて断片的に登場することは当然としても、後者は個人の伝記であるにも関わらず前者と同じような一種の時代史であるという。さらに両者は様々に異なった事柄をあげながらも、その時代史という点では同一の資料によったと思われる程、酷似する。しかも両者の鎌足に関する記述はともに大化改新以前の蘇我大臣家の滅亡に至る事件史の中での自画自賛的な記載に重点が置かれているように見えるという。その為、大化改新以前の鎌足象もよほど、文飾に気をつけなければならない。そして、大化改新以後に到っては、鎌足が特別に何をしたかがよくわからない。という。
このように最新の研究の結果、藤原氏の出自とその正当性に疑問が投げかけられるようになって来ているのである。
その中臣(藤原)鎌足は大化の改新の折、唐突に歴史に登場する。
 『日本書紀』はいう。中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、国を傾けようとしていることを憎んでいた。この時、中臣鎌足は無位無冠の身であった。
そこで、皇族の中に入り込み、共に事を成す英傑を捜し求めていた。そして白羽の矢が立ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。
無位無冠の中臣鎌足は、千載一遇の機を得る。飛鳥の中心・宝興寺(ホウコウジ)<元興寺・飛鳥寺>の槻の木の下で「蹴鞠(ケマリ)の会」が企された。
中臣鎌足はこの蹴鞠の輪の中に加わった。そして、中大兄皇子が鞠を蹴る拍子に靴を落とした時、すかさずこれを拾い上げて捧げた。中大兄皇子もこれに対し礼を述べた。こうして二人は出会い、意気投合していく。
『蹴鞠(ケマリ)』がきっかけで、無位無官の中臣鎌足は中大兄皇子の信任を得たということである。
そして、中大兄皇子と密かに、蘇我入鹿打倒を練り、準備を進めていったのだという。
だが、中臣(藤原)鎌足の他に、先の蘇我氏横行を非難する記録は全く見当たらないのである。つまり、蘇我氏の振る舞いに対し、横行だと主張したのは、中臣鎌足だけだったという事実である。
ちょうど同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。
大化の改新・蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。
大化の改新の記載が有る、『日本書記』皇極記には、中臣(藤原)鎌足とこの百済王子・豊璋(ホウショウ)、そして、上宮王家(山背皇子ら聖徳太子一族)の暗殺、大化の改新による蘇我一族の暗殺記事が会い混じって記載されている。
岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁
時の人前の謡の応を説きて曰はく、「岩の上に」といふえお以ては、上宮(聖徳太子一族)に喩ふ。「小猿」といふ以ては、林臣(蘇我入鹿)に喩ふ。「米焼く」といふを以ては、上宮を焼くに喩ふ。「米だにも、食げて通らせ 山羊の老翁」といふを以ては、山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。又其の宮を棄捨てて深き山に匿れし相なり」といふ。
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。
これによると、人質であったはずの百済皇子・豊璋(ホウショウ)が、聖地・三輪山で、蜜蜂を放して養蜂を試みたが、失敗したというのである。
『日本書紀』はこの記事に続き、3年の春正月1日、中臣(藤原)鎌足が神祇伯に拝さらるが、再三これを固持し、病と称して三嶋(大阪府三嶋郡)に侍ったと続くのである。
さらにこの歳の夏6月の記事として次のように記載する。
猿猶合眼りて歌して曰はく、
向つ嶺に 立てる夫らが 柔手こそ 我が手を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや
 これは、三輪山の猿が、数年後の上宮(山背皇子等・聖徳太子一族)暗殺の兆しについて噂し合ったと記載するのである。
そして、『日本書紀』皇極記は、蘇我氏の横行、中臣(藤原)鎌足や中大兄皇子らによるクーデター・大化の改新の計画と実行の記事が記載される。
さして『日本書記』皇極記は次のように結ぶ。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)の性順(ヒトトナルユル)くして、かくて罪有ること無くして害されたり。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)は「罪なくして殺された」と言う。

済明6年(660年)9月、百済は使者をヤマトに遣わした。そして、この年の7月に新羅と唐の連合軍が百済を攻め滅ぼした事、君臣は皆捕虜となったが、鬼室福信が百済王家再興の為、奮戦しているということを知らせた。
そして、10月。その鬼室福信が、人質として来日していた豊璋(ホウショウ)を召還し、新たに王に立てたいと申し出た。加えてヤマトに救援を求めてきたのである。
これに応じ、翌年9月、中大兄皇子は織冠を豊璋(ホウショウ)に与え、本国に送り返したのである。
人質であったはずの豊璋(ホウショウ)であるが、白村江の戦いの直前、百済に帰国し、国家の再興を目指す。
そして、中大兄皇子は、何とこの豊璋(ホウショウ)一人を救うため、大国・唐を敵に回す決断をするのである。そして自ら軍勢を率いて白村江に軍を進める。
だが、大和・百済連合軍はここで決定的な敗戦を記す。
百済皇子豊璋(ホウショウ)は、こうして志半ばにして頓挫し、行方をくらますのである。
そして、この人物が日本を離れたとき、実は中臣鎌足も忽然と歴史から姿を消しているのである。それも白村江の戦いという国家の一大事に中臣鎌足は行方不明になり、そして敗戦後、突然歴史に姿を現すのである。
 衆知のように、中大兄皇子の側近中の側近であったと言う、中臣鎌足が、国家存亡の折、行方不明になったということ自体が理解できない。
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。
 確かに、そう考えると、中臣(藤原)鎌足の唐突な日本史への登場、百済救済の為の白村江への無謀な出兵、後述する壬申の乱での韓国軍の到来、さらに天皇家ご自身の神道・道教から、仏教への移行。それに伴う道教の象徴・古墳の消滅など、すべての謎が解けてくるのである。
 『記紀』にもそれ以前の藤原氏(中臣氏)の記載が曖昧なのである。
 つまりは、日本古代史は彼の登場以前が謎になっているのである。 
 大国主の「国譲り」神話のモデルはここにあったと推定できる。
 いずれにしても、無位無官だった、中臣鎌足は、その死に臨んで「大織冠藤原内大臣」という前例のない栄誉の地位に登る。そして後の藤原氏の祖として、その繁栄の基礎を築く。百済皇子・豊璋(ホウショウ)も中大兄皇子(天智天皇)によって織冠をあたえられていたことには既に触れた。


22:23 | 日本古代史 | comments(1) | trackbacks(0)
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コメント
 というか、未だに五摂家の子孫が考古学や歴史学、神道にも入り込んでいて、もはや客観的に日本の古代が見れないようになっていることに警鐘をならいたい。
2012/01/17 12:22 AM by 元弥生墳丘墓学者
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